冷戦期におけるスウェーデン外交の多様化 ―ウンデーンによる安全保障政策の推移 1948-61―

以下は大学卒業時の私の卒論です。

個人の特定できるものではありますが、昨今の情勢を受け公開いたします。

誤字脱字にご理解の程よろしくお願いいたします。

 

 

 

  はじめに

本稿は、第二次世界大戦後のウンデーン(Östen Undén 在任期間 1924-1926 1945-

1962)による北欧においての同盟構想(以下、スカンジナビア防衛構想)ドイツ自由選挙問題、非核クラブ構想を事例とし、スウェーデン外相のウンデーンの外交方針について論じるものである。スウェーデン外交における中立は戦時中立、平時非同盟と定義する。スイスやオーストリアのような条約で定義された中立政策ではなく、国家の主権を守る手段としてスウェーデンの中立政策は選択されてきた。冷戦期の中立政策における先行研究では、元来ウンデーン路線とパルメ路線と分類されてきた。そしてウンデーンの外交方針は後任のパルメと比較され前者を消極的外交、後者を積極的外交と枠組みし、研究が行われてきた。積極的外交とは、国際情勢の安定化と自国の国際的地位の上昇を持ってスウェーデンの平和を保つことができる1ものとされ、ベトナム戦争におけるアメリカ批判やイラン・イラク戦争の仲介などの大きな功績が多い。

一方で、ウンデーンは前述のパルメ首相(Sven Olof Joachim Palme 在任期間 1982-

1986)と比べて、国際的な批判は少なくむしろ、従来のスウェーデン外交を引き継いだもので、消極的なものであったとされてきた。しかし、現在ではウンデーンの行った外交とパルメの外交とで連続性を示唆する研究も少なくない。中でもウンデーン研究においては、中立国としての信頼性の向上や、国際連合への期待を示すものも存在する。これらの研究が国際的なスウェーデン外交の伸長を述べていく一方で、ウンデーン時代のスウェーデン一国の利益に注目し、利他的な視点から分析したものは少ない。ウンデーン自身は、第一次世界大戦後のドイツの国際連盟加盟に尽力したことや、後述する非核クラブ構想など、平和への貢献、国際協調としての煌びやかな部分を挙げられやすい。反対にスウェーデン国内の安全保障上の重要な部分は従来の研究では見落とされてきた。したがって、上述した事例を用いて、これらのウンデーン外交が従来のスウェーデン外交から変化し、消極的なものではなく、より国際的な視点を取り入れた重層的な自立外交へのシフトを示すことを本稿の目的としたい。

 

 第1章 スウェーデンの外交の軌跡

スウェーデンの冷戦期の外交を紐解くにあたり、その端緒を再確認することは本稿においても重要なことである。中立の起源という議題は他の研究にて度々言及されているところであり、本稿では趣旨から離れているため割愛する。しかし、第一次世界大戦から第二次世界大戦を通じて、スウェーデンの外交は当時の世界の情勢の影響を強く受けた。中でも戦間期におけるスウェーデン外交ではウンデーンはその先頭に立っていたことから取り上げるべきである。

 スウェーデンの敵対国として挙げられるのは、第一次世界大戦時においてはロシアであった。東方からの脅威を強く感じていたスウェーデンはそのロシアと戦うドイツ帝国に対して親近感を持っていた。そしてその親近感はバルト海と北海間の海峡に機雷を敷設し、英国船の侵入を阻んだ事で顕在化した2スウェーデン第一次世界大戦後の国際連盟の設立に際し、集団安全保障とスウェーデン外交における中立性の両立に苦心した。国際連盟の機能の不完全さを補うためにスウェーデンはドイツの加盟交渉や、軍縮交渉に積極的に関わり、軍事的義務が果たされることのないように尽力した。ウンデーンはこの時期における国際連盟の機能の不完全さを的確に見抜いており、国際連合加盟においてもこの経験を遺憾なく発揮することとなる。1930 年代からの流動的な国際情勢は国際連盟の活動の限界を示していた。日本の中国進出やイタリア・エチオピア戦争において国際連盟はブレーキ役を務めることが出来なかったことにより、スウェーデンは国際協調の路線から再度従来の中立政策へと回帰することになる。

第二次世界大戦でのスウェーデンの立ち位置は非常に難しいものであった。北欧諸国と共に中立を宣言したものの、隣国のノルウェーがドイツの占領下に入ってからは、スウェーデンはドイツの圧力により中立政策の譲歩を迫られた。1907 年に締結されたハーグ条約から逸脱した行動が見られ中立性の疑問は戦中、戦後ともに追及されることとなったが、戦中のスウェーデン外務省の発言では、「われわれはスウェーデン自体の利益のみを念頭に置いて決定をした。われわれの最大の目的は独立を維持して、戦争の局外に立つことであった。」3としている。この発言は、当時スウェーデンが自国の中立性と戦争の回避にいかに尽力していたかを察することができるものである。中でも独ソ戦の際に完全武装のドイツ師団の通行権許可が最たる例である。ドイツは継続戦争と呼ばれるソ芬戦争の支援のためにフィンランドへの師団の派遣を計画していた。フィンランドへ安全に師団を派遣するためにスウェーデンに対し、国内における軍隊の通行権を要請した経緯を持つ。グスタフ国王(Gustaf Ⅴ 在位期間 1907-1950)の勅令により論議が行われ、自国の主権をどのような形で守るのかドイツとの綱渡りの交渉が行われた。結果として、領内通過を認めたことは、スウェーデンの中立性を問う事例として挙げられる。一方で、完全に非戦闘状態であったわけではなく、領空侵犯を行ったドイツ機やアメリカ機を強制着陸させた事例や、ソ連による工場の空爆も散発していた。スウェーデン第二次世界大戦において戦火を免れたものの、その中立政策の信頼性が揺らぐ事となった。

 戦後、外相に就任したウンデーンは周辺国との関係改善や自国の国際政治上の地位の確立に奔走した。ウンデーンは国際連合の加盟に際し、スウェーデンの中立政策の放棄について明言した。ウンデーンは、安全保障理事会において拒否権が行使されるような国際情勢の場合は、スウェーデンはその義務に縛られることはなく外交を行うことができ、反対に、拒否権が行使されず、国際連合が十分に機能する場合は中立を放棄したとしてもスウェーデンはその主権を守ることができると考えていた。そのため、集団安全保障と中立の両立はウンデーンにとって可能な問題であった。また、対ソ関係を重視していたウンデーンは、「バルト人強制送還事件」ではソ連の要求に従い、独ソ戦に参加したバルト人をソ連に送還する行動を取り、ラウル・ワレンバーグ(Raoul Wallenberg)氏がソ連軍により拉致された問題においてもソ連への直接的な批判を避けた4。こうした対ソ融和的な姿勢は一定の評価を受け、1946 年にはソ連との信用協定が締結された。戦後まもなくは「橋渡し外交」を目指したウンデーンであったが、東西冷戦の対立激化はウンデーンに自国の安全保障政策の見直しを迫ることとなる。

 

第 2 章 スウェーデン安全保障の基軸

スウェーデンは自国の主権を守るために、中立という選択肢を取ったがそれは重武装による国防システムとなっている。安全保障という概念は不明瞭なものであるため、本稿では「予防的な政治的措置、抑止的な措置、あるいは攻撃に対する防御によって、国際システムにおけるアクターが、自分たちに向けられた外からの脅威を中和するために講ずる措置に対する総合的概念」と定義する5。1980 年代にエーリック・ノレーン(Erik Noreen)によって「ノレーン・モデル」としてスウェーデンの防衛政策は分析された。これは、4要素がスウェーデン第二次世界大戦後の外交政策の枠組みを作っているとした。下図の左欄では軍事的な面と非軍事的な手段を表しており、上欄の手段では、「外からの軍事的脅威から自国の脆弱性を減少させること」と「外からの軍事的脅威を除去するためにその前提に影響を及ぼす」ことを表している。しかし両者の性質は似通っており、ノレーン自身がこれらは衝突するものであるとしている。ノレーンは前者を現実主義、後者を理想主義と枠組みするのではなく、より単純に悲観主義と楽観主義の性質を持つとしている。また、スウェーデン外交政策はこれらの混在によって構築されているものであり、互いに排除し合うものではないと定めた6

手段

外からの軍事的脅威に対し自国の脆弱性を減少させること

外からの軍事的脅威を除去するためにその前提に影響を及ぼすこと

軍事的

1,国防軍

3,国連平和維持活動

非軍事的

2,全防衛の民間部門

4,国際軍縮交渉などの外交政策

図 1 ノレーン・モデル7

 1の国防軍の部分は 1962 年を例にとると防衛費は GNP 比4%となっている。これは NATO 諸国では西ドイツ、ワルシャワ条約機構側ではポーランドと同じ割合8となっており、スウェーデンという国の安全保障への危機感を窺い知ることができる。占領を経験し、国防意識が高まっていた西側最前線の低地諸国と同じ割合でもあった。国防軍の充実はスウェーデンを侵略しようと考える国に対しその行動のリスクを高めることができる。また、自国の防衛力を敵対国に見せつけることで危機交渉の際に戦力の誤認を起こさせにくくさせうる。

スウェーデンにおいては岩島氏の先行研究において、「大国がスウェーデンの全土あるいは一部を犯すことにより得られる利益価値は敵対国がそれによって蒙る不利益価値によって決定される」ことがスウェーデンの国防において重要な点であるとしている。またスウェーデン周辺地域における要衝地としてバルチック海峡とノース・キャップにおける軍事的行動がスウェーデン国防における緊張度を示すこととなる。続いて2の全防衛は言葉が曖昧であるが、この項目はスウェーデン国内における安全保障政策への支持、理解を指す。1948 年の選挙では主に国内の経済政策が争点となったものの、エランデル率いる社会民主党が政権を保持したことは、時系列的にスカンジナビア防衛構想、ドイツ自由選挙問題、非核クラブ構想に繋がっていくこととなった。また、主に 3,4 の部分が「積極的外交政策」、パルメ路線と称されスウェーデンの冷戦期における国際的な立ち位置も示すものである。この「積極的外交政策」とは批判、意見形成、仲介、途上国支援が内包されている外交方針であるとされている9。前述の通り、パルメ路線とウンデーン路線においてはその連続性が先行研究において多く示唆されているものである。

 加えて、スウェーデンの安全保障において、重要な判断基準とされるのがノルディック・バランスとされるものである。スウェーデンフィンランドノルウェーデンマークの 4 か国がそれぞれ北欧地域にて一定の緊張の下でバランスを保っているという考えである。スウェーデンにとってこのバランスは政策決定における重要な役割は果たさないものの、国防に関して警報装置のような役割を果たすと考えられている。例としてフィンランドにおいて、ソ連の前線基地の建設された場合や、ノルウェーデンマークにおいて、核兵器の持ち込みや外国の軍隊が常駐した場合、このバランスが崩れ、国防上に大きな問題が発生したと考えることができる。反対にスウェーデン自身が、どちらかの陣営に傾きすぎた場合に周辺国はバランスの変化を敏感に感じることになる。よってスウェーデンは自国の安全保障において、周辺国家との関係も視野に入れなければならない。1980 年代に次期対地攻撃機の選定の際にスウェーデンの空軍戦力は必要以上に強化されており、北欧地域のバランスを脅かしているという論点も存在した10。また、スウェーデンの安全保障政策の立案の基になっているドクトリンはマルギナール・ドクトリンであり、清水氏は

「余剰戦力ドクトリン」と呼称している。スウェーデンがヨーロッパの大きな紛争に巻き込まれた場合に、侵略国家がスウェーデン一国のみに焦点を当てた戦闘が起きる確率は低い。(東西陣営に属する国家に接しているためである。)その為、スウェーデンは侵略国家がスウェーデン攻撃に割く軍事力のみを跳ね返すことができれば、自国の安全は保たれるものであるとしている11。これは、第二次世界大戦時にドイツがスウェーデンへの攻撃を行わなかった理由に当てはまる。ドイツはスウェーデンの攻撃計画こそ存在したものの、その攻撃に投入し、占領を継続する戦力を、東西両戦線から捻出することが困難であると考えていた。これはスウェーデンの国防に関する戦力をドイツ側に正しく認識させることができた事例である。第一次世界大戦からの「総力戦」の体制はスウェーデンに民間を巻き込んだ防衛体制の構築を促したと考えられる。軍事防衛、民間防衛、経済防衛、心理防衛、通信と医療の5つの側面からスウェーデンの重武装路線は確立されてきた。国内各地における自治体が防衛体制の一端を担っていることからも分かる。また特別訓練が毎月実施され、個人個人に防火、清掃、医療などの各分野に割り振られた 15 万人の国民が動員される。12

 図 2 北欧諸国 (外務省 HP より)

以上のように、スウェーデンは自国の安全保障において戦時中立、平時非同盟の外交軸を保持するために自国のみによる防衛の責任を負い、北欧のバランスの重要なファクターとして立ち位置を確立していた。東西両陣営の軍事的な衝突の危険性に挟まれながらウンデーンは第二次世界大戦後、国際連合にて自国の安全保障政策を北欧地域のものから国際的なものへと昇華させようと尽力した。

 

第 3 章 スカンジナビア防衛構想の提言と挫折

ウンデーンは、戦間期においても外相の責を担った。当時非常任理事国であったスウェーデンは、ドイツの加盟に尽力した。ウンデーン自身は、国際連盟第二次世界大戦後の国際連合の十分な機能がスウェーデンの平和に貢献しうることを強く感じていた。国際連盟の加盟と国際連合の加盟に際し、国内において中立政策からの逸脱は激しく議論されたことであるが、この事例以外にも中立政策からの逸脱と考えられる政策をウンデーンは行っていた。

 1948 年の 5 月 1 日にウンデーンはデンマークノルウェースカンジナビア防衛構想の創設案を提出した。この構想は、同年 2 月のチェコスロヴァキアでの共産党によるクーデターが原因である。それまでウンデーンはソ連の一連の行動をあくまで西側諸国の圧力から生じる防衛的反応であると捉えており13、1 月のイギリスによる西欧同盟の加盟を拒否したことは従来の中立外交に則していたものだった。しかし、その中立政策の放棄もウンデーンの視野に存在していたことは言うまでもない。国際連合での安全保障理事会における拒否権を問題視しながらも、スウェーデン国際連合の集団安全保障政策に加わることができると考えていた。ウンデーン自身は、国際連合に強く期待しながらも、その機能が十分に果たされなければスウェーデンは従来の中立政策に回帰する必要があると感じていた。ウンデーンは、スウェーデンの安全保障政策における弱点を捉えていた。スウェーデンの「全防衛」は国民に大きな負担を強いることになり、自らの領土に強く責任を持たなければならない政策方針であると指摘していた。国際連合の集団安全保障はその弱点を補ってくれるものであり、また自国の中立政策を強く支持している国民への理解を示すものとして国際協調への参加を正当化できる方針でもあった。加えて、スカンジナビア防衛構想も国際連合の集団安全保障の性質を持った地域同盟であったことはウンデーンが従来の中立政策に変化を加えようとしたことを示している。

かくしてスウェーデンノルウェーデンマークの三ヵ国による交渉が始まったが、各国の安全保障上の状況の差異は構想の実現を困難にさせた。ノルウェーデンマークには外交上3つの選択肢が存在した。①NATO への参加、②スカンジナビア防衛構想への参加、③従来の中立政策への回帰である。スカンジナビア防衛構想の交渉に際し、「北欧防衛委員会」が設立され、同盟の詳細が決定された。1)加盟国間の集団安全保障、2)局外での戦争では中立を明言、3)局外での戦争時の中立の保持への連携、4)各国の防衛

力の強化と合同防衛計画への参加、5)第3国との軍事同盟の締結の禁止が決められた

14。

同構想にフィンランドアイスランドは入らなかった理由として、1948 年 4 月にフィンランドソ連との間に友好協力相互援助条約が締結されており、フィンランドソ連に対する緊張感を刺激する必要性は存在しなかった。またアイスランドでは第二次世界大戦時に占領していたイギリス軍が、アメリカ軍と軍事保護協定に基づきアイスランドの防衛を任されていたためである15

同構想は後に北欧三ヵ国の外交方針の乖離を防ぐためであったとスウェーデン側は説明している16。また、同構想の発端はフィンランドの東側への譲歩と、アイスランド及び北海地域の西側のパワーバランスを感じ取ったスウェーデンのノルディック・バランスに基づいた構想であるとも考えられる。中でもウンデーンは、「北欧防衛委員会」での中立の明言と方針の保護に重きを置いた条約の締結を提示していることから、明文化されていなかったスウェーデンの従来の中立政策を、より信頼性の高い国際法レベルに押し上げようとした経緯を見ることができる。第二次世界大戦後の、スウェーデンは周辺国との友好関係の構築が目標の一つであったこと、国際連合へ加盟したこと、同構想の試案の 3 つの事例はスウェーデンの中立政策が自国レベルのものから地域レベルとなったことを示している。

しかし、同構想は 1949 年 1 月のオスロでの交渉を最後に実現の可能性がないことが確認された。同構想では各国の認識の差異が隔たりとなっていた。スウェーデンにおいては、まず同盟の目標として、中立政策の保持が挙げられる。ウンデーンは、当時中立政策の転換を重要視していたものの、国際連合の機能への期待を感じていた。また、スウェーデンでは、サーブ社やボフォース社、スカニア社などの国と密接な関係を持った軍需企業が多い。自国で軍需が賄えるという土壌はノルウェーデンマークと大きく異なっていた点であり、スウェーデンの長年の重武装による防衛政策だからこその独自の事情であった。またその地理的要因も大きく関連している。冷戦期のスウェーデンの仮想敵国は主に東側諸国であり、実際に軍事衝突が起きた際の計画も練られていた。この件について後述するが、スウェーデンは軍事的な大国と直接国境を面しておらず、隣国を介しての陸路からの侵攻や海岸線からの上陸作戦など、防衛策が限定されやすかった。また、前述したノルディック・バランスによる警報装置の役割も大きく、即時にスウェーデンのみを標的とした軍事的行動は起きにくい環境であった。スウェーデンが中立政策を再確認したのは

1948 年 4 月 2 日である。ウンデーンは閣僚に対し、スウェーデンが西側陣営に傾くことはスウェーデンが冷戦における東西両陣営の最前線になることを確認していた17

一方で、ノルウェーデンマークは従来2か国共中立政策を選択してきていた。1938 年

5 月 2 日には北欧 4 か国(フィンランドを含む)は戦時の厳正中立を明言しており、局外に立つことを約束した18。しかし、中立が守られることはなかった。被占領下でのレジスタンス運動や国土の開放は当時両国民にとって記憶に新しい出来事であり、第二次世界大戦時に連合国側に立って戦ったことから西側への歩み寄りをちらつかせていた。両国とも NATO か同構想で揺れていたが、アメリカが NATO 加盟国以外での軍事的援助は行わないとする決定が 1949 年の諸会議にて明らかになると両国は同構想に協力的ではなくなっていった。これらの事実から、スウェーデンと2か国においては同構想へ求めるものが異なり、差を埋めることが出来なかった結果同構想は破綻したと結論付けることができる。しかし、安全保障上の同構想が挫折したことで、多方面において協力関係の構築が進んだこともじじつである。北欧会議が創設されたことや、経済レベルでも北欧協力の進展があったことは、北欧地域が冷戦において高い緊張関係にはなかったことを示している。

以上が、同構想に進展と挫折の過程となる。同構想は、ウンデーンが中立を軸としながらも、その中立政策に幅を持たせ、冷戦という新しい対立構造に対応した結果の構想と捉えることができる。また、仮想敵国であったソ連に対し、北欧諸国の中立を確証することで、ソ連への挑発的な行動を未然に防ぐ役割を同構想は持っていた。ウンデーンの「中立」という政策をより強固なものにしようとした試みは絶たれ、新しい形でスウェーデンの安全保障政策を国際的に示していかなければならない状況に追い込まれていた。そこでウンデーンは当時明言を避けていたドイツ問題に進展があったため、同問題に積極的に関わっていくこととなる。

           

 

北欧防衛委員会の三ヵ国

スウェーデン

ノルウェー

デンマーク

各国が選択しやすい外交政策

スカンジナビア防衛構想への参加

NATO への参加

NATO への参加

各国があくまで選択肢として保持している外交政策

従来の中立政策への回帰

スカンジナビア防衛構想への参加

スカンジナビア防衛構想への参加

 

図 3 スカンジナビア防衛構想における各国の外交政策の選択肢

 

 第 4 章ドイツ自由選挙問題

当時ドイツ問題は、国際連合で討議されることはなかった。中でもウンデーンは、1948 年のスウェーデン議会において明言を避ける旨を発言していた。そのような状況にて、チェコスロヴァキアでの政変や朝鮮戦争の勃発などの軍事的な行動が散発していたことから、西側諸国は西ドイツの再軍備化を決定した。一方でソ連側の東ドイツは、ドイツ再統一における主導権を持つために西ドイツとの再統一に向けた交渉を提案していた。しかし当時西ドイツ首相であったアデナウアー(Konrad Hermann Joseph Adenauer 在任期間

1949-1963)は東ドイツの要求を数度に渡り拒否した。アデナウアー首相の拒否は東ドイツにとって、再統一に積極的な姿勢を持っている陣営を強調する正当性を与えることとなる。一方、1951 年 9 月に西ドイツ政府および連邦議会はドイツ再統一に関する宣言を採択した19。同宣言によりドイツでの自由選挙の実施に向けて、東西ドイツにおける調査が必要とされ、その為に国際連合に調査委員会を設置し、中立の立場から判断が必要であるとした。西側諸国はこれに応じ、調査団の派遣や東ドイツでの自由な調査をソ連側に要求した。しかし、ソ連国連憲章 107 条の戦勝国の管理地域の不干渉を理由にこれを拒否した。採決の結果、過半数の賛成を得た西側諸国案は特別政治委員会へと移され議論されることとなった。

ウンデーンの初動はこの特別政治委員会での演説であった。ウンデーンは、西側諸国の提示した案(米、英、仏が中心であったため以下、三ヶ国案)を、ドイツ再統一を利用したプロパガンダであると批判した。同委員会の調査ではドイツにおける自由選挙の下地が備わっていないことがただ判明するのみであり、再統一に向けた自由選挙が行われることはないであろうと述べた。また、再統一に向けた自由選挙の援助は国際連合が担うべきであるとし、選挙の実施の保証するために、米英仏ソの 4 か国が調査への協力を同意する必要があると発言を行った20。この演説を踏まえて、ウンデーンを中心とする国連代表部が独自案の提出に動き出した。しかし、ウンデーンの独自案の提出は大きな反対に受けるこ

とになる。反対の意を表した代表的な人物は、アメリカのアチソン国務長官(Dean

Gooderham Acheson 在任期間 1949-1953)、在スウェーデン米国全権大使のバターワー

ス(William Butteworth)、クーパー上院議員(John Cooper)、西ドイツのアデナウアー首相、イギリスのイーデン外相(Anthony Eden)らがスウェーデン国外から反対した。

先行研究ではアメリカ側の反対を主に取り上げていたが、アデナウアー首相が反対していた事由については取り上げられていなかった。本来、ウンデーンの独自案(以下、ウンデーン案)はドイツ再統一に国際連合の保証がついた確実なものであったのに対し、なぜアデナウアー首相は反対したのであろうか。アデナウアー首相の反対は主にドイツ再統一についてはアデナウアー首相自身が時期尚早であると考ええていたのである。当時アデナウアー首相はマーシャルプランに端を発した COCOM(対共産圏輸出統制委員会)、

NATO への加盟に取り組んでいた。また、ヨーロッパ防衛共同体条約、西ドイツの占領状態の終結を目指す「平和取り決め」の協議を西側諸国と行っており、西ドイツの再軍備化など主権を取り戻していく状態であった。しかし、いくつかの東ドイツからの妨害工作はアデナウアー首相に、統一への消極的な姿勢を持たせていた。アデナウアー首相はソ連の脅威を全く持って論じておらず、彼の回顧録では以下の理由を挙げている。①西側諸国の軍事的優位、②ソ連側の補給路の弱さ、③石油などの原材料不足、④アメリカの核保有、これらを持ってソ連を封じ込めることができると考えていた21。また経済的な行き詰まりや政治的不安定さ、東側諸国との宗教的違いも要因として挙げている。また彼は、「西ドイツが行うべき政治の最高の目標は、自由で統合されたヨーロッパにおいてドイツの統一を回復することである。」22としており、優先的な目標は西ドイツが西側諸国と共に東側諸国へ対峙し、その後安定したヨーロッパにおいて統一を目指すべきであるという考えを持っていた。

これらのことから、アデナウアー首相がウンデーン案に反対した理由が見えてくる。東ドイツの再統一の交渉を提案したグローテヴォール書簡を西ドイツが拒否したことにより、東側陣営が西側陣営はドイツ再統一に消極的であると攻勢を強めていた。三ヵ国案はソ連の拒否を引き出すことにより再統一への積極性を国際的に示すチャンスであると西側諸国は考えていた。その為、ソ連がウンデーン案に賛成し、反対に西側諸国がウンデーン案に反対する状況が起きると、西側諸国は目標を達成することができなくなってしまう事態に陥る可能性が生じた。アメリカやイギリスの反対の理由は以上の通りとなる。アデナウアー首相は前述したように、ドイツ再統一に消極的であり、まずは西側諸国との同盟、関係強化が最優先課題であったためウンデーン案に反対したと考えられる。

ウンデーン案には国内からも否定的な評価が共有されていた。エランデル首相(Tage

Erlander)はスウェーデンが国際的に孤立することを危惧しており、ハマーショルド無任所大臣(Dag Hammarskjöld)はソ連への支援策であると批判した23。一方で、賛成の声も存在した。スウェーデンの国連代表団は進んでウンデーン案の作成に取り掛かり、社民党の議員の一部は三ヵ国案のプロパガンダ性を批判し、ウンデーン案を支持した。

このように国内外において賛否の声が上がったウンデーン案であるが、結果としてノルウェーデンマークによる三ヵ国案の改定案が提出され採択された。改定案では、国際連合が選挙の実施に伴い支援を行うことを組み込んでおり、これはウンデーン案に含まれていた内容となっていた。しかし、改定案の採択時までウンデーンは三ヵ国案の批判を繰り返した。

ウンデーンが同案に固執した理由として 1952 年 1 月 28 日に出演したラジオでウンデーン案の提案について説明を行った。ウンデーンは、スウェーデン外交は大国の機嫌を取りながら行うものでなく、独自の路線を取らなければならないとし、その路線こそが「我々は多くの尊敬を得る」と述べた24。これらのことからウンデーンの一連の行動は、スウェーデンの安全保障の緊張を和らげることになるドイツの安定化は、あくまで副次的な目標であったと考えられる。ウンデーンの目標は前述のスカンジナビア防衛構想の時と変わらず、中立政策の信頼性の向上であった。スカンジナビア防衛構想がソ連に好意的に評価されず、軍事的な脅威としてソ連を刺激していた経緯から、ドイツ自由選挙問題における独自案の提出はウンデーンにとって戦争の局外に立つことを示す好機であった考えられる。スカンジナビア防衛構想とドイツ自由選挙問題にて、中立政策の保持を国内外に示すことができたウンデーンは、1961 年の非核クラブ構想立案における過程で、東西両陣営から中立・非同盟諸国の代表の一国として国際連合軍縮交渉に赴くこととなった。

 

三ヵ国案

ウンデーン案

内容

自由選挙実施のための調査

選挙を国連が支援、4 か国による同意の下の調査

目的

ソ連の拒否から生じる正当性の確立

ドイツにおける自由選挙の実施

図 4 ドイツ自由選挙問題における提示案の差異

 

 第 5 章 非核クラブ構想

1950 年代終盤では軍縮委員会などの開催により東西両陣営の対話が進められていたが、 1960 年頃にはベルリン危機を通して、アメリカ、ソ連間の緊張は高まっていた。ソ連の核実験の再開はスウェーデンにとって核兵器の脅威を間近に感じることになった。スウェーデンが核の不拡散、軍縮交渉へ進んでいく前提として、スウェーデン国内において核兵器開発、配備の計画が存在した点に触れておくべきである。

1945 年 7 月 27 日、駐ストックホルム米国公使であったジョンソン(Herschel Johnson) は、サリーン(Stig Sahlin)外務次官と会談した。ジョンソンはスウェーデン国内に多くの埋蔵量が確認されているウランの輸出に際し、アメリカとイギリス両国の了承を受け、またその提供を優先的に受けるように要求した。当時、原子力のノウハウを全く持っていなかったスウェーデンは広島の原爆投下の報が届いたことで事の重大さに気が付いた25。核の膨大なエネルギーに身構える一方で、エランデル首相は原子力エネルギーに強く興味を抱いた。第二次世界大戦時には多くの物資が配給制になり、石油もその一品であった。エネルギーの自給の可能性に沸き立ち、政府は同年 11 月に「原子力委員会」を設置し原子力エネルギーの開発に着手した。また原子力は軍部からも関心を寄せられた。広島、長崎の原爆投下の後、軍部は核開発の助成金を政府に要請していた26。しかし、スウェーデンの核、原子力開発は順調なものではなかった。それはアメリカが技術や情報の提供を制限していたことが主な理由として挙げられる。

事態の進展を見せるのが 1953 年、アメリカのアイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領が国連総会の場にて原子力の平和利用を訴えた後、平和利用の原子力技術が西側諸国に共有されてからである。スウェーデンアメリカに友好的な国として見做されたことで、技術、物資の提供を受け原子力技術を急速に進展させることとなる。そして 1954 年 10 月に、スウェーデン軍最高司令官ズヴェードルンド(Nils Swedlund)による報告書にてノルウェーソ連核兵器の影響下にある限り、スウェーデン核兵器ソ連に対して抑止策となりうる、と示した27。また、国内においても世論は二分することとなった。1957 年のスウェーデン世論調査研究所の調査では、国民の 40%が核武装に賛成し、36%が反対をしていた28。賛成派は核の抑止力を主張し、反対派はソ連を必要以上に刺激する結果になるとして平行線を辿るものとなってしまった。中でもウンデーンは社民党内で核武装反対派の中心核となり、道義的観点から強く反対した。ウンデーンは核開発に成功し、配備を行った場合、セキュリティー・ジレンマを引き起こすことや、戦争の勃発時に第一撃を国にさらす危険性をはらんでいると指摘している29。また、ウンデーンは核武装路線であったエランデル首相を説得し、反対派に移させる行動もとっていた。

このようなウンデーンの行動は軍部に強く嫌悪された。軍部にはウンデーンの反対派が少なからず存在していたのである。アメリカへの批判が主であったウンデーンの外交路線は、西側への歩み寄りを模索していた野党や軍部にとっては障害であった。実際軍部は

1950 年代から 60 年代の間に、NATO の領空侵犯を度々黙認していた。NATO から「エンバーナイン」(Amber Nine)と呼称されていた航路はスウェーデンの南西を通過するルートであった NATO 側はスウェーデン側の中立政策に矢面が絶たない様に領空侵犯の公表は避けていた30。1952 年の 6 月 13 日にスウェーデン空軍所属の DC-3 機が偵察飛行中にバルト海上空で消息を絶ち、救助のため派遣されたカタリーナ機がソ連ミグ 15 戦闘機2機に撃墜される「カタリーナ事件」が起きた。消息を絶った DC-3 は恒常的にソ連へ偵察活動を行っていたことが明らかになっており、スウェーデンの中立性が問われることとなった31。また、国籍不明潜水艦による領海侵犯も頻発しており、ウンデーンは安全保障上の脅威を強調して、軍部が勇み足になることを危惧しており、一方で、軍部はソ連と対決姿勢を見せないウンデーンに苛立ちを覚えていた。

また、1962 年にはケネディ政権時のラスク(David Dean Rusk 在任期間 1961-1963,

1963-1969. 後者はジョンソン政権時を指す)国務長官によってスウェーデンソ連からの攻撃を受けた際にはアメリカはスウェーデンを支援することが決まっていた32。これらは、スウェーデン軍部は西側との歩み寄りを政府とは独立して行っていたことを示しており、ウンデーンの西側陣営批判は軍部には好意的に受け取れるものではなかった理由となりうる。そもそもウンデーンはソ連を必要以上に挑発することは、スウェーデンの安全保障上避けなければならない問題であると捉えており、一方の軍部は、ソ連が核で武装する以上、抑止力として核武装が必要であるという両者の対立構造であった。

こうした流れの中、1960 年 5 月のパリ首脳会談が流会し、ジュネーブでの東西 10 か国軍縮会議の交渉が打ち切られたことで、東西関係は悪化していった。また 1961 年にはベルリンでの軍事衝突の危険性が高まったことは、スウェーデン核武装に少なからず影響

を与えた。軍部の中には核武装が安全保障に著しく寄与する意見を疑問視する声が上が

り、分裂していた社民党内でもシュルド(Per Edvin Sköld)やパルメなどの核武装派らも核軍縮に協力の姿勢を見せたことで、スウェーデンにおける核軍縮外交が政策立案されることとなった。

 東西の関係が悪化する中で、特にアメリカはその外交手段に変化を加えつつあった。その理由として国連加盟国の増大が挙げられる。アジア・アフリカ諸国が独立を果たし、国連に加盟したことで、西側諸国のみで過半数の票を獲得することが困難になると予想されていたためである。1950 年代終盤に、東西両陣営から構成された 10 か国軍縮委員会(前述したが、会議は流会する)に中立・非同盟諸国を加えようと模索していたアメリカであったが、中立・非同盟諸国へのアプローチはすでにソ連が先立って着手しており、アメリカは後手に回っていた。中立・非同盟諸国反米感情が強く、ソ連としては諸国の支持を得て西側諸国へ圧力をかけることを目標としていた。アメリカでは対ソ強硬論を主張する「タカ派」と、対ソ交渉の必要性を説く「ハト派」との間にて、ベルリン問題におけるソ連への対応を協議していた。中でも両派とも中立・非同盟諸国へのメッセージが必要であると考えていた33。これらの経緯から、アメリカはスウェーデン軍縮委員会への参加を促した。要請を受けたスウェーデン外務省のオーストゥルム(Carl Sverker Åström)政治局長は同委員会への参加にアメリカ、ソ連両国の同意が必要であるとアメリカ側への回答に留保をつけた。一方でソ連大使はウンデーンと会談行い、軍縮交渉への参加を促された。

こうして、スウェーデンは大国間の軍縮交渉に臨む一国として国際連合に赴くこととなる。

ウンデーンは外交官のミュールダール(Alva Myrdal)に国際的な軍縮の要点を調査させた。調査を基に、ミュールダールは 1961 年 7 月 28 日にベルリン問題の重要性を説いた覚書を作成した。この覚書の重要な箇所として取り上げられるのが、核の傘への不参加によって核戦争の回避を図るべきであるという主張である34。ミュールダールのこの覚書はウンデーンの非核クラブ構想の土台となるものであった。ウンデーンはこの覚書を基に外務省に軍縮委員会を設置し、ミュールダールを含む数人の外交官と、軍部からヴェンネンシュトルム(Stig Erik Constans Wennerström)准将を選出し、非核地帯の構想を練った。

当委員会の中で、大きな政策の柱が 2 点定められた。①大国間での軍縮交渉は行き詰まりやすいため、中立・非同盟諸国らが特別な役割を果たさなければならないこと、②非核保有国間にて核の製造、配備を禁止し、非核地帯を設置する必要があるということであった。このように国際連合での提言を目指しつつ、調整が続けられていた中で、ソ連の核実験の再開の報はウンデーンにより積極的な行動を取らせた。ウンデーンは 1962 年 9 月 1 日からユーゴスラヴィアベオグラードにて開催される非同盟諸国会議で、同会議の参加国で大国に圧力をかけ軍縮交渉の席につかせることを目指した。しかし、ソ連の強いアプローチを受けたチトー(Josip Broz Tito )と、ドイツ問題に強い関心を寄せるナセル(Gamal Abdel Nasser)の間にて議論が分かれ、ベルリン問題における軍事的脅迫や、その行使を自制するよう関係各国に要請するという折衷案のような形で会議は終了した35。また、会議後には米ソ両国に使者が送られ米ソ両国の直接交渉が戦争回避に必要であることが伝えられた。

会議を通じてウンデーンは、ソ連の核実験が北海で行われれば、スウェーデン国内での放射能汚染の恐れがあることを示し、軍縮交渉におけるスウェーデンの役割を強く感じていった。同年 10 月 26 日、ウンデーンは国連総会の政治委員会の場にて非核クラブ構想を披瀝した。同構想の目的は非核保有国の核の保有、配備を禁止することで核の不拡散を目指したものであった。東側諸国には同構想を好意的に受け止められたものの、西側諸国での主な反応は反対であった。ニュージーランドアメリカの同盟システムが自国の安全保

障政策の基本である以上では賛成は難しいとした。一方で、カナダ外相のグリーン

(Howard Green)は、構想の内容自体は好意的に評価できるとした。しかし西側陣営の大国は強くこれに反対した。非核クラブ構想において、参加国の領土内に核兵器を配備の禁止は、西側諸国の核による軍事的優位性を減少させると判断していた。

スウェーデンと歩調を合わせ、共同で提言を行いたいと申し入れる国もあり、それらの国と共に、スウェーデンは 11 月 17 日に非核クラブの設置を目指した決議案を提出した

36。同日アイルランドも核不拡散への提案を行った(以下、アイルランド案)。アイルランド案は核の譲渡の禁止や非核保有国における保有、管理を行わないよう約束する努力目標を設定するという比較的緩やかなものであった。結果非核クラブに関する決議案は採択され、国連加盟国に非核クラブ設置に関するアンケート調査が開始された。スウェーデンが提言した同構想にも関わらず、スウェーデン自体が同構想へ慎重な姿勢を見せた。理由としては、ウンデーンは国内で十分な議論を行わないまま、同構想を提言しており、政府が同構想を全面的に支持していたわけではないからであった。一方で、東側諸国は総じて好意的に受け止めており、中立・非同盟諸国の中でも中国は懐疑的な反応を示した。結果、同構想はアンケート調査のみにとどまり、具体化され実現することはなく消え去ってしまった。

ウンデーンとミュールダールは核軍縮の交渉の機会を国際的な場で作ることができたことを評価し、計画の実現に固執したわけではなかった37。ウンデーンはソ連の核開発、実験、配備をスウェーデンの安全保障上の脅威と捉えており、また自国の核配備はソ連を必要以上にけん制してしまうと考えていた。またスウェーデン一国のみが北欧諸国内で核配備を行った場合ノルディック・バランスが著しく変化する可能性が存在した。ノルウェーフィンランドが外国の駐在軍を許可してないにもかかわらず、スウェーデン一国のみが突出した軍備増強は悪影響を及ぼしてしまうことであった。

後のパルメ路線として定義される「積極的外交政策」は、スウェーデンの核開発計画から通ずる軍縮交渉にその嚆矢を見ることができる。ウンデーンとパルメの連続性を示唆する重要な起点であることは先行研究らで多く取り上げられていることであり、核開発が逆説的に軍縮の道をスウェーデンに取らせた経緯を窺い知ることができる。またその後の

1970 年における核不拡散条約の批准はスウェーデン自体の核開発を放棄し、核不拡散に貢献していく外交方針の表れとなっているのである。

 

 おわりに

これらの事例からウンデーンは、初期こそ中立政策の放棄を視野に入れていたが、スカンジナビア防衛構想の挫折や東西冷戦の激化受けて、従来の中立政策に回帰していった。しかし、冷戦という新構造における緊張関係はスウェーデンが自国の安全保障のみに固執するわけでなく、自ら国際社会にて自国に及ぶ脅威を排除する必要があった。ドイツ自由選挙問題では、スウェーデンが東西陣営に縛られない独立した外交を世界にアピールするチャンスであった。また、非核クラブ構想同様、具体化は度外視していた可能性も存在する。

非核クラブ構想においては、北海での核実験がスウェーデンに悪影響をもたらすと予想される中で、核の不拡散と不使用の明文化はスウェーデンにとって喫緊の課題であったといえよう。一方で、1950 年代のスウェーデン外交の評価として、米ソ両陣営から、中立・非同盟諸国の一員として軍縮交渉に招聘されたことは軽視できないことである。ウンデー

ンの後任のパルメ外相の行ったパルメ路線は抗議政策であるフィンランドのケッコネン

(Urho Kaleva Kekkonen)大統領に批判された経緯もあるが、ウンデーン自身もドイツ自由選挙問題においては、西側陣営のプロパガンダ政策を強く批判していたことから批判の性質のみを用いて両者を区別することは好ましくないであろう。

また、ボールディング(Kenneth Ewart Boulding)の強度喪失勾配に言えば、スウェーデンノルウェーの隣国として NATO の影響下あり、核の傘に入っていたことになる38。安全保障上は西側よりであった為に、外交において西側陣営に対する批判を行うことは当然のことであった。しかし、ノレーン・モデルの右側の性質のみであったスウェーデン外交を国際的なものに押し上げたウンデーンの功績は消極的外交という言葉で枠組みをしてよいものではないだろう。ウンデーンは、同盟の構築、西側諸国への批判、国際的な軍縮交渉などに取り組んだが、ウンデーンの外交方針の基礎は自国の中立政策の確実性の向上と、安全保障上の脅威の排除を柱にしていたことを本稿では明らかにした。後のパルメ外相のパルメ路線とウンデーン時代の外交路線の連続性もこれらの事例から示すことができる。ウンデーンは中立・非同盟諸国の一員として求められた役割に合わせ、スウェーデン外交を多様化させた政治家であった。これまで、一国の主権を保持する手段でしかなかった安全保障政策を地域レベルからより広範囲の国際的なレベルまで押し上げたのはウンデーン外交であり、パルメ外相はその系譜をより具体化させ、積極的な国際協調路線の一国として世界にスウェーデンという国を認識させたのである。

 

 

参考文献

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